じぶんにきづくブログ。

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どんな目的も、突き詰めれば気持ちである

どんなに成果が目的に見えても、結局はさまざまな気持ちの積み重ねの結果、思考が停止しているにすぎない

 自分がこうしたい、とか、こうしよう、と思っているような目的は、突き詰めれば基本的に気持ちなわけです。

 例を挙げてみましょう。もっとも反論として典型的なのが、”あたりまえ”や”~しなければならない”に陥っている場合でしょう。会社のノルマとか、試験での成績とかがそうです。

 もしノルマが達成できなければ、解雇される。

 会社にとって役にたとうとしないことは、それ自体悪だ。

 試験に合格できなければ、高校生として失格だ。

 だから、ノルマは達成しなければならない?目的でなければならない?

 本当にそうでしょうか。ここでは、「解雇」や「悪」や「失格」という言葉で思考が停止しているといえます。
 
 会社で成果がでないと、どのような気持ちになるか考えてみましょう。
 
 ここでいう成果とは結局、あなたが会社の役に立たず、解雇された結果生じるさまざまな状況で、ネガティブな気持ちを感じるのを避けるための手段であったり、プロとしての意地や達成感を感じるための手段であったり、周囲に迷惑をかけない、とか、認められたい、とかの手段であったりするにすぎません。
 そうしたものがいろいろ積み重なり、共有され、次第に社会的に強制力を持つと、”しなければならない”という固定化した考えに至ってしまうのです。

 成果を出さなかったとき、感じる気持ちを全部取っ払ってみてください。気持ちが目的だとわかるはずです。

間接的な目的も、気持ちがなくては成り立たない


 あるいは、次のような例は気持ちではないと考える人もいるかもしれません。

 たとえば、友達にどうしても譲って欲しい時計があって、交換に指定されたモノが小さい頃に遊んでいたパズルだったとします。あなたはそのパズルを実家のどこかにおいていますが、正直どうでもいいものだったとします。
 
 そのパズルを探すことそれ自体には、実際のところ、なんの魅力も感じないでしょう。

 すると、パズルを探している部分だけを見たところ、手に入れても特にうれしくもないものを目的にして行動しているように見えるかもしれません。

 しかしながら、実際には、聞いたこともなかったモノであっても、交換の対象になった時点で「交換できるという期待」などの気持ちが連想されています。
 もしそこになんの気持ちも連想されていなければ、おそらく行動することはできなかったはずです。

欲求を満たそうとすることも、結局は気持ちを目的にしている

 
 あるいは、次のような考えもあります。

 たとえば、あるとき、なんとしてもあるお菓子が食べたくなって、そのお菓子を食べたとします。

 しかしながら、そのお菓子はとてもまずく、とても満足できるものではなかった。

 結果から見れば、満足の得られない食べものを食べることを目的としていた、という風に見えるかもしれません。

 ですが、実際に行動している時には、美味しいお菓子を食べて満足するという気持ちを、(ここまで言葉で明確に意識していなくとも)イメージとして持っており、それを目的として行動していたといえはしないでしょうか。

目的がわからなくなったら、立ち止まって自分の気持ちに気づいてみよう。それは、自由にもつながる。

 このように、人が意図して目的としていることは、無意識的に意図している難しい状況でない限り、ほぼ間違いなく”気持ち”が核となっているのです。

 ですから、もし、「~しなければならない」などの考えが頭をよぎったり、自分の行動の目的が見えてこなくなったなら、自分がやろうとしていることが実現すれば、自分はどんな気持ちになるのか、それが実現しなかったら、自分がどんな気持ちになるのか、立ち止まって考えてみてください。

 そこには、たくさんの気持ちがあるはずです。

 そして、その気持ちの中で優先順位をつけることができれば、あなたは必要以上に自分に課していたたくさんの制約やプレッシャーから開放されるはずです。

 最終的には、その目的である気持ちにたどり着くために、今までにない新たな方法で、柔軟に行動し、より確実にたどり着くことができるようになるはずです。

目的となる気持ちの抽象度について:ポイントは、あなたにとって「これだ!」と思える気持ちを選ぶこと

 もちろん、誰かが意図している目的なら、ですが。自分がこうしたい、と思っているような目的は、突き詰めれば基本的に気持ちなわけです。

 例を挙げてみましょう。もっとも反論として典型的なのが、”あたりまえ”や”~しなければならない”に陥っている場合でしょう。会社のノルマとか、試験での成績とかがそうです。
 もしノルマが達成できなければ、解雇される。

 会社にとって役にたとうとしないことは、それ自体悪だ。

 試験に合格できなければ、高校生として失格だ。

 だから、ノルマは達成しなければならない?目的でなければならない?

 本当にそうでしょうか。ここでは、「解雇」や「悪」や「失格」という言葉で思考が停止しているといえます。
 
 会社で成果がでないと、どのような気持ちになるか考えてみましょう。
 
 ここでいう成果とは結局、あなたが会社の役に立たず、解雇された結果生じるさまざまな状況で、ネガティブな気持ちを感じるのを避けるための手段であったり、プロとしての意地や達成感を感じるための手段であったり、周囲に迷惑をかけない、とか、認められたい、とかの手段であったりするにすぎません。
 そうしたものがいろいろ積み重なり、共有され、次第に社会的に強制力を持つと、”しなければならない”という固定化した考えに至ってしまうのです。

 成果を出さなかったとき、感じる気持ちを全部取っ払ってみてください。気持ちが目的だとわかるはずです。

 あるいは、次のような例は気持ちではないと考える人もいるかもしれません。

 たとえば、友達にどうしても譲って欲しい時計があって、交換に指定されたモノが小さい頃に遊んでいたパズルだったとします。あなたはそのパズルを実家のどこかにおいていますが、正直どうでもいいものだったとします。
 
 そのパズルを探すことそれ自体には、実際のところ、なんの魅力も感じないでしょう。

 すると、パズルを探している部分だけを見たところ、手に入れても特にうれしくもないものを目的にして行動しているように見えるかもしれません。

 しかしながら、実際には、聞いたこともなかったモノであっても、交換の対象になった時点で「交換できるという期待」などの気持ちが連想されています。
 もしそこになんの気持ちも連想されていなければ、おそらく行動することはできなかったはずです。
 
 あるいは、次のような考えもあります。
 たとえば、あるとき、なんとしてもあるお菓子が食べたくなって、そのお菓子を食べたとします。

 しかしながら、そのお菓子はとてもまずく、とても満足できるものではなかった。

 結果から見れば、満足の得られない食べものを食べることを目的としていた、という風に見えるかもしれません。

 ですが、実際に行動している時には、美味しいお菓子を食べて満足するという気持ちを、(ここまで言葉で明確に意識していなくとも)イメージとして持っており、それを目的として行動していたといえはしないでしょうか。
 「怒り」とか「悲しみ」とか「絶対的な安心」という最も抽象的な気持ちを無理に目的にする必要はありません。
 ある程度、具体的なイメージに付随する気持ちで大丈夫です。

 たとえば、達成感とか、スッキリ感といったものでもいいし、人に認められた時の喜び、といったものでもいいでしょう。

 ただ、

 ”プロジェクトを達成したときの達成感”

とか、

 ”あの人に認めてもらう喜び”

などといったように、あまり具体的にし過ぎると、その気持ちを得るためのアプローチはある程度限られてはきます。
 それでも、「誰かに認められた喜び」ではなく、「あの人に認めてもらう喜び」でもなく、「自分の好きな人に認められる喜び」が自分にとって最も重要だと感じるなら、それを求める気持ちとして表現すればよいのです。

 ポイントは、あなたにとって「これだ!」と思える気持ちの表現を選ぶことです。